寝台列車の歴史



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「鉄道系」リンク集


※2014年5月をもって閉鎖されたほどちゃんさんの「ほどちゃんの島」からの引用です。自分がよく利用する寝台車の記事が多く載っており、参考にしておりました。
ご本人様とは面識はございませんが、折角のサイトの記録ページを載せさせて頂きます。閉鎖されてしまい、本当に残念です。出来るのであれば復活をお願いしたいくらいです。
記事を転用するのをお許し下さい。とてもよくまとめてあり、皆様にも知ってもらいたいからなのです。復活されるんなら、このページ、封鎖します。
自分の「たびてつ」で多く利用している、寝台列車。これからの動向がとても気になっていますが・・・。その歴史などを振り返ってみましょう。

↓「ほどちゃんの島」からの引用。一部の記事は、私“つきみの”が修正・補修してございます。

1900年4月8日に始まった日本の寝台車の歴史。各地に普及した寝台車も現在は限られた区間のみに連結されています。寝台列車の旅は時間はかかりますが、
横になって寝ながらに移動できる点で時間的に経済的でもあると考えます。朝目覚めたら目的地についていることは行動範囲が広がります。20世紀の遺産として残るブルートレイン。
後の改造や新車の登場によりブルートレインとは呼べない寝台列車も存在しています。現在は様々な個室寝台なども連結され新幹線、飛行機、バスとは違い
乗車そのものが旅の一部ともなります。異次元の世界が広がる寝台列車の旅みなさまも味わいませんか?

寝台車の歴史


寝台車の登場

 日本における寝台車の歴史は明治33(1900)年4月8日に始まります。当時の山陽鉄道が大阪 - 三田尻(現在の防府)間に1等寝台車を連結しました。自社工場制のこの車両は食堂車を併設されており寝台は開放式で通路を挟んで両側に2段ベッドが並ぶものでした。定員は16人でした。利用客には寝具の貸し出しも行われ寝台を利用するには一等運賃の他に寝台利用料2円が必要でした。寝台利用区間は大阪 - 広島間でした。当時の官鉄も同じ年の10月1日から新橋 - 神戸間の急行列車に1等寝台車1両の連結を開始している。こちらはコンパートメント式で4人用個室が5室定員20人であった。山陽鉄道同様に運賃の他に寝台料金が設定され昼間2円、一昼夜4円、夜間のみ3円であった。官鉄では明治35年7月より寝台車に扇風機のサービスを開始している。

2等寝台車の登場

 山陽鉄道では明治36(1903)年5月1日から大阪発着1本、京都発着2本で下関を結ぶ列車に2等寝台車を1両連結開始している。自社工場制で開放式通路を挟んで13列2段式で定員52人であった。運賃の他に料金は上段20銭、下段40銭で利用できた。明治39年3月16日山陽鉄道は官鉄に買収される。官鉄は帝国鉄道庁を通して明治41(1908)年12月5日より鉄道院となる。その鉄道院では明治43(1910)年9月21日に新橋 - 神戸間の急行列車に2等寝台車の連結を始める。この寝台車は二人用も備えられ定員28人であった。元山陽鉄道の2等寝台車は2等軽便寝台車と改称された。その後2等寝台車は各地へと普及していくこととなる。2等寝台には「一人床」「二人床」があったが、大正7(1918)年11月16日に「並型」「大型」と改称され一人利用に改められている。

特別急行「富士」の登場

 明治45(1912)年6月15日新橋 - 下関間に1、2等のみの「特別急行」が登場する。この列車は下関 - 釜山間の連絡船と接続する国際列車の一翼を担う列車であった。列車は郵便手荷物車、2等車、2等車、2等寝台車、食堂車、1等寝台車、1等展望車の7両編成であった。車両は全てこの列車の為に新造されたものだった。時間は新橋発8時30分下関着翌日9時38分、下関発19時10分新橋着翌日20時25分であった。大正4(1915)年2月1日に東京駅開業に伴う時刻修正され東京発8時下関着翌日9時38分、下関発19時10分発東京着21時05分となった。その後のルート変更、機関車の性能向上などにより所要時間は向上される。昭和4(1929)年9月15日東京 - 下関間の1,2等「特別急行」に公募により選ばれた「富士」の名称が与えられる。また、大正12(1923)年から登場の東京 - 下関間3等「特別急行」にも「櫻」の名称が与えられている。

3等寝台車の登場

 昭和6(1931)年2月1日から東京 - 神戸間の列車に3等寝台が初めて登場する。車両はスハネ30100型(後のスハネ31型)。車内は3段式で上段80銭、中段と下段は1円50銭と1・2等に比べ格安で利用できた。大正9年料金改定時寝台料金は1等上段5円、1等下段7円、2等並型上段3円、下段4円50銭、2等大型6円50銭であった。当時東京 - 下関を結んでいた「櫻」にも同年6月25日から3等寝台車が連結されのちに各地の普及していくこととなる。

シャワーバスの試行

 昭和10(1935)年7月15日「富士」の寝台車にシャワーバスが設置され使用料30銭で利用が開始された。しかし、その年の秋には休止となり昭和13(1938)年5月19日には廃止されている。

寝台車の消滅

 太平洋戦争などの戦局が激しくなると国民の行動も制約を受けてくることになる。まずは、昭和16(1941)年7月16日には3等寝台車の連結を取りやめている。そのような中、昭和17(1942)年に関門トンネルが開通すると11月15日改正から「富士」は長崎へ延伸している。但し、「櫻」は廃止されている。「富士」は昭和18(1943)年10月1日より博多止まりとなり、そして、戦局が悪化した昭和19(1944)年4月1日改正では第一種急行「富士」の廃止に合わせて寝台車の連結が全て取りやめられる。戦時中、寝台車は座席車などへ改造されたものもある。

寝台車の復活

 昭和23年(1948年)年末東京 - 大阪間の列車に12月15日東京 - 鹿児島間の列車と常磐線経由上野 - 青森間の列車と函館 - 旭川の列車に特別寝台車(翌年5月1日からは1等寝台)の連結が開始され、一般に寝台車が復活した。昭和24年9月15日常磐線経由の上野 - 青森間の一等寝台車が連結され、この車両のみは青函連絡船で航送され札幌まで結ぶことも行われている。この後徐々に寝台車が復活していくこととなる。昭和25年までには2等寝台車も復活している。

戦後新製・復旧した主な車両

なお、個室はばら売りであった。

一等寝台の廃止と3等寝台の復活。

 昭和30(1955)年7月1日寝台車について割高であった一等が廃止されている。1等廃止に伴い1等特別室を2等A室に1等一般寝台を2等B室に既存の2等を2等C室と改称した。3等はそのまま残された。昭和31(1956)年3月20日より東京 - 大阪間の急行「銀河」「明星」などに3等寝台が復活した。車両は新たに新造されたナハネ10型であり、1両当たりの定員は60名で各室毎にカーテンなどが設置された。料金は上段720円、中段840円、下段960円であった。

あさかぜの登場と寝台列車

 昭和31(1956)年11月19日東京 - 博多間に特急「あさかぜ」が登場した。東京 - 九州間の輸送に徹する為に京阪神を夜間に発着するそれまでにない画期的な運転であった。時間は東京発18時30分博多着11時55分、博多発16時35分東京着10時00分であった。昭和32(1957)年10月1日改正では初めて寝台専用列車が登場する。東京 - 大阪間を結ぶ「彗星」がその列車で全車指定で1両を除き全て寝台車での運転を行った。

20系客車の登場

 昭和33(1958)年10月1日東京 - 博多間に特急「あさかぜ」に20系客車が登場する。それまでの在来客車は1両単位の設計であり各車両が混結可能であったが、20系では集中電源方式により編成単位で設計し全車冷暖房完備、食堂車なども含めサービス電源を電源車により確保された。寝台車は2等A寝台ナロネ20型はルーメット式一人用個室10室と二人用個室4室、2等B寝台ナロネ21型は寝台幅94cmの開放二段寝台、3等寝台のナハネ20型は寝台幅52cmの3段寝台定員54名であった。あさかぜ投入当初は2等座席車のナロ20型、3等座席車のナハ20型とナハフ20型、食堂車のナシ20型、電源車のマニ20型の8形式が投入された。また「さくら」に投入する際には2等AB寝台のナロネ22型、ナハフ21型、カニ21型が投入される。「はやぶさ」投入時にはカニ22型が登場している。昭和39(1964)年には座席車両の寝台化が行われナハネフ20型、ナハネフ21型が登場している。また新製でナハネフ22型、ナハネフ23型も登場する。昭和38年には分割された車両の行き先が異なることにより必要となる電源車としてマヤ20が旧型車両の改造で登場する。車両は青に白のラインを3本入った固定編成はのちに「ブルートレイン」と呼ばれるようになる。20系の増備は昭和45(1970)年まで続く。新製車両523両、他編成からの編入6両の合計529両の車両が存在した。寝台特急として活躍したのは昭和55(1980)年10月1日までであった。後継車両へと引き継がれると急行列車に転用され昭和51年2月20日の「銀河」を皮切りに急行列車へと進出していくこととなる。

等級が改訂

 昭和35(1960)年6月1日に「こだま」「はと」が電車化された。これに伴い1等展望車が廃止され1等車が全て廃止された。一等展望車に変わりパーラーカーが登場しているが6月30日までは2等扱いで特別座席料金が必要であった。7月1日に等級制の変更が行われ、1等が廃止されそれまでの2等が1等に、3等が2等になった。2等寝台のA室、B室、C室もそれぞれ1等寝台A室、B室、C室となっている。

581系寝台電車の登場

 電化区間の進展と共に効率的な車両運用を行い、車両基地スペースの不足を補う為に電車寝台が誕生する。昭和42(1967)年10月1日改正で新大阪 - 博多間に581系寝台電車を用いた「月光」が登場する。夜は寝台、昼は座席として使用され、昼間は新大阪 - 大分間の「みどり」として使用された。581系寝台電車は「月光」でデビューしたことから「月光型」と呼ばれた。寝台は2等(のちのB寝台)のみであった。581系は直流区間と交流60ヘルツ区間に対応していた。のちに583系が交流50ヘルツにも対応して登場している。昭和47年までに両形式合わせて474両が製造された。この電車の寝台幅は下段102cm、中段・上段は70cmもありゆとりある寝台幅となった。

等級制の廃止

 昭和44(1969)年5月10日に等級制の廃止が行われ運賃のモノクラス化が行われる。1等がグリーン車、2等が普通車になりグリーン車にはグリーン料金が適用されることになる。寝台車では1等寝台がA寝台に2等寝台がB寝台となった。1等A室、B室は統合されA寝台となっている。

14系寝台車の登場

 昭和44(1969)年電源分散方式の12系客車が登場する。12系では基本的に6両編成の1両に電源装置を搭載することでまかなうことができた。それまでの20系では分割併合する列車では分割駅に電源車を準備しておく必要があった。また、月光型が投入されていたこともありゆたかさをもとめる時代へとかわりつつありゆったりと寝れることが乗客から求められていた。そこで寝台幅は70cmとなり中段には自動昇降装置がとりつけられ乗務員の労力削減なども計られた。昭和46(1971)年10月1日急行「瀬戸」で14系は試用された。スハネフ14型、スハフ14型が試行用に準備された。昭和47(1972)年3月10日から「さくら」「みずほ」「あさかぜ」の各一往復を14系に置き換えている。投入にあたり、A寝台のオロネ14型、食堂車のオシ14型が導入されている。14系は188両製造された。

24系寝台車の登場

 昭和47年11月北陸本線北陸トンネル内で急行「きたぐに」に火災事故が発生した。寝台車では火災の発見が難しい為、電源集中方式に戻されることになり寝台や備品の難燃化、不燃化を進めた24系が登場する。24系客車は昭和48(1973)年10月1日から「彗星」「あかつき」に導入された。24系にはA寝台のオロネ24型、B寝台のオハネ24型、オハネフ24型、食堂車のオシ24型、電源車のマヤ24型の5形式が導入されている。マヤ24は新聞輸送などの対策のためカヤ24へと改称される。24系は118両製造された。

24系25型寝台車の登場

14系・24系からさらにゆとりを求めそれまで3段式であったB寝台が2段式へと変革し、画期的なサービスであった。2段化には新幹線博多開業を控えた乗客の減少や料金値上げによる乗客の減少など予測されていたのではないかと考えられる。それまで戦前から伝統的にB寝台は3段式のベッドであったが24系25型が登場し2段式へと発展を遂げた。昭和49(1974)年4月25日から「あかつき」「彗星」に登場した。登場時にはオハネ25型、オハネフ25型、カニ24型の3形式が登場している。九州・山陰方面の列車として増備する際には100番台となり上段寝台の固定となる。新たな車両としてはオロネ25型が増備された。これは現在のシングルデラックスの元祖である。そのほかにオハネ25型200番台も登場している。このグループには試作車としての要素が強い夢空間もある。オロネ25型901番、オハ25型901番、オシ25型901番が夢空間である。なお、このグループには食堂車は準備されなかった。オシ24型を組み込んでの運用をおこなっていた。24系25型は415両新製されている。夢空間の3両を合わせると418両となる。

15型寝台車の登場

 それまで24系が増備されてきたが昭和53(1978)年10月2日「あかつき」に14系15型寝台が登場する。「あかつき」では分割併合列車が行われており電源分散方式が求められていた。14系15型では自動消化装置の装備や難燃化構造となって登場した。車内は2段式B寝台である。のちに14系、24系も寝台の2段化が行われている。14系15型はスハネフ15型、オハネ15型の2形式のみ増備され63両新製されている。

グレードアップ化

 昭和59(1984)年7月1日に14系客車の改造によりB寝台4人用個室「カルテット」登場し「さくら」「みずほ」に連結される。B寝台の通路側に仕切を取り付け、下段ベッドはソファーにもなる個室でB寝台4人分の料金で個室が利用できた。昭和60(1985)年3月14日にはくつろぎの空間「ロビーカー」が既存車両の改造により登場し「はやぶさ」に連結された。のちに「富士」にも連結されることとなる。昭和62(1987)年4月14日には改造によりB寝台二人用個室「デュエット」やシャワー室を備えた車両とオリエント風食堂車が「あさかぜ」に連結される。昭和63(1988)年3月に青函トンネルが開通し上野 - 札幌間に「北斗星」が登場する。こちらも改造によって豪華A寝台個室「ロイヤル」、ゆうづるで試用されたA寝台二人用個室「ツインデラックス」、B寝台一人用個室「ソロ」、B寝台二人用個室「デュエット」が連結された。一方、平成元(1989)年7月21日から大阪 - 札幌間には「トワイライトエクスプレス」が団体専用列車として運転を開始している。「ロイヤル」の他に「スイート」を備え豪華編成を誇った。その後も各列車に改造により個室寝台、座席車であるレガートシート車などが登場することとなる。

個室主体列車の登場

 平成10(1998)年7月10日個室を主体に構成されて電車寝台サンライズエクスプレス285系が新製された。サンライズ出雲・サンライズ瀬戸として東京と四国、山陰地区を結ぶ列車として登場している。個室はB寝台中心に「シングル」「シングルツイン」「サンライズツイン」、A寝台「シングルデラックス」とリーズナブルな料金で利用できるノビノビ座席の各設備が提供され、ビジネス・観光に便利なようになっている。
 平成11(1999)年7月16日より北斗星を発展させた「カシオペア」E26型が登場した。こちらは全てA寝台二人用個室で構成され豪華さを売り物としている。個室は「カシオペアスイート」「カシオペアデラックス」「カシオペアツイン」の3種類の個室が揃えられている。また、ダイニングカーも連結されている。サービスは行き届いておりダイニングカーが利用できなくてもデリバリーサービスなどが存在している。

寝台列車の縮小

 東海道新幹線開通後、鉄道は高速化が始まる。その中で寝台列車は取り残され続け縮小の道を歩むこととなる。20世紀前半は鉄道の役割は大きく列車の直通サービスの面からも寝台列車は有効に機能していましたが、新幹線の開通以降、鉄道は高速化の道が始まり、新幹線の延伸とともに寝台列車は縮小されていくこととなります。高速化と直通サービス両面を機能させる有効な対策がないまま高速化のみが先行し、車両面、サービス面でも寝台列車は見劣りさせられてきました。特に寝台特急が在来線特急に抜かれる状況まで発展していますが、寝台特急のサービスは向上することなく廃止へと進もうとしています。航空機の大衆化、地方空港の開港、そして1980年代になると格安な高速バスの台頭により寝台列車の有効性は減少を余儀なくされてきました。1970年代、1980年代にかけて、国鉄の赤字に伴う運賃・料金の値上げ、特に寝台料金は大幅な値上げを繰り返しておりました。国鉄の運賃・料金の度重なる値上げや労使関係悪化に伴う順法闘争が繰り返されたことにより、国鉄離れが加速的に発生しました。それにより旅客が減少して夜行列車にも影響が及んだと考えられます。そして、国鉄の分割民営化により各社間を跨いで運行される寝台列車は各社の思惑が入り乱れ有効な対策が遅れ、合理化の名の下で魅力的なサービスを提供することを諦めてしまったと言わぞうろう得ない状況と思います。寝台列車が利用可能だった割引きっぷの廃止なども行われています。国鉄時代は国内で広域的に車両のやりくりをして、他方面転用するなどし車両を有効に使用した寝台列車サービスを提供してきましたが、JR化後には各社内で完結してしまうことが多くなり、JR各社間で車両の有効利用が見られなくなりました。サービス向上が期待できる車両達が有効に活用されず廃車されているのが現状であると言えると思います。
 寝台列車縮小のもっとも大きなトピックスは平成6(1994)年12月3日ダイヤ改正でしょうか。東京 - 博多間を結んでいたあさかぜ1/4号、いわゆる博多あさかぜの廃止でしょう。昭和62(1987)年にデュエットの連結・食堂車の改装などグレードアップ改造を行い安泰かと思われた博多あさかぜでしたが、廃止により衝撃が走りました。東京 - 熊本・長崎を結んでいた「みずほ」も同時に廃止されました。そして、平成9(1997)年11月29日改正では東京 - 西鹿児島を結んでいた「はやぶさ」が東京 - 熊本に、東京 - 南宮崎を結んでいた「富士」が東京 - 大分にそれぞれ、区間を縮小しています。さらに平成11(1999)年12月4日改正では東京 - 佐世保を結んでいた「さくら」が廃止され、さくらは東京 - 長崎を結ぶ列車のみになり東京 - 鳥栖間は「はやぶさ」と併結となりました。平成12(2000)年3月11日改正では京都 - 佐世保を結んだ「あかつき」が廃止となりました。佐世保から寝台特急が消滅しました。あかつきは京都 - 門司間を「彗星」と併結し、京都 - 長崎を結ぶ列車のみとなりました。平成14(2002)年12月1日ダイヤ改正では東北初のブルートレインである「はくつる」が東北新幹線の延伸により廃止されました。平成16(2004)年3月13日改正では「なは」が新大阪 - 熊本間に縮小され鹿児島からブルートレインは消滅しました。そして平成17(2005)年3月1日ダイヤ改正では東京 - 下関を結ぶ「あさかぜ」、東京 - 長崎を結ぶ「さくら」が廃止された。歴史のある両列車ですが、名称が消滅します。同時に東京 - 熊本を結ぶ「はやぶさ」と東京 - 大分を結ぶ「富士」は東京 - 門司間を併結して運転となります。平成17(2005)年10月1日ダイヤ改正では京都と南宮崎を結んでいた寝台特急彗星号が廃止され、寝台特急あかつき号と寝台特急なは号が併結運転へと変化しました。平成18(2006)年3月18日ダイヤ改正では東京と出雲市を鳥取経由で結んでいた出雲号が廃止されました。地元とのいざこざもあり、鳥取からはいなば号による上郡でサンライズ出雲・瀬戸に接続する措置がとられるという珍しい現象もみられました。この改正では寝台特急日本海1/4号の運転区間大阪 - 函館から大阪 - 青森に短縮され、特急利尻号は夏季のみ運転、特急オホーツク9/10号が冬季のみ運転という季節列車へと変化しました。平成19(2007)年10月1日には、札幌と釧路を結ぶ特急まりも号が臨時列車へと変化しました。

寝台列車の絶滅への序章

 2002年の高速バスの自由化により夜行高速バスが増えたこと。さらに格安を売り物にしたツアーバスが誕生し夜行高速バスの料金が格別に下がりました。そして格安なカプセルホテルなどが充実したこと、漫画喫茶やインターネットカフェなど格安で泊まれる空間が増えてきました。さらに2007年問題として騒がれた寝台列車を出張などで利用した世代が現役から引退したことなどにより利用する世代が減ったこと。JRはブルートレインと呼ばれる列車を中心に改善するということができなかったこと。特にJRの分割民営化して各社間をまたがる列車の方向性を示すことができなかったことも大きいと思います。そのため、10年以上も寝台列車に対して設備は貧弱になっているにも関わらず、料金を安くするなど施策を取らなかったこと。そのため、寝台列車の置かれた環境は著しく変化して行き、利用率の低下を招いてしまいました。また、インターネット環境が整ったが新幹線を含む特急列車の予約は可能になったが、一部を除き寝台列車の予約ができないという状況が生まれています。さらにはJRが旅行会社に販売しているシステムでも寝台列車の予約ができないという状況を生んでいます。それらが絶滅への序章として寝台列車5往復という大量廃止時代を迎えました。

時は平成20(2008)年3月15日ダイヤ改正では、戦後すぐに東京と大阪に運行を開始してのちに銀河と名が付いた寝台急行銀河号、関西と九州を初めて結んだ寝台特急である寝台特急あかつき号、沖縄の本土復帰の願って名付けられ昼行特急として活躍しのちに寝台特急として関西と鹿児島・後に関西と熊本を結んだ寝台特急なは号、廃止ではないが日本海沿いを大阪から青森まで結んだ寝台特急日本海号が2往復から1往復へ、名目上は青函トンネル工事のために上野と札幌を結ぶ寝台特急北斗星号が2往復から1往復に減便されました。
平成20(2008)年3月15日ダイヤ改正で残った寝台列車は10名称のみです。寝台車両を連結した急行列車を含めても12名称のみとなります。
今後も整備新幹線の開業を控え寝台列車サービスは激動の時代が予想されます。直通列車サービスという魅力ある商品をJRには有効に生かして頂き、各社間の思惑だけでなく利用者の立場にたった商品を展開して頂きたいと思います。そして、経営者が叫ぶようにV字回復を寝台列車にも果たせるような環境を整えて欲しいと願います。

九州ブルートレインの全廃

平成21(2009)年3月14日ダイヤ改正にて東京と九州を結ぶ寝台特急はやぶさ、寝台特急富士が廃止されます。この廃止により九州地区を結ぶブルートレイン、寝台列車は全廃となります。昭和31(1956)年11月19日東京 - 博多間に誕生した特急「あさかぜ」以来活躍を続け、昭和33(1958)年10月1日より20系の運転となり青い車体からブルートレインと呼ばれて走り続けてきました。全国にブルートレインが走り始めると九州方面へのブルートレインは九州ブルートレインと区別されました。東京から九州を結んだ寝台特急には「みずほ」「あさかぜ」「さくら」「はやぶさ」「富士」が、名古屋と九州を結んだ寝台特急には「金星」、関西と九州を結んだ寝台特急には「月光」「きりしま」「明星」「彗星」「なは」「あかつき」などがありました。特に関西と九州を結んだ「あかつき」は最大7往復、彗星は最大5往復など多数運転されていました。今回、廃止となる「はやぶさ」「富士」が九州とを結ぶ最後のブルートレインであり、由緒ある九州ブルートレインは終止符を迎えます。同時に九州地区から寝台列車が消滅します。

首都圏と北陸を結ぶ夜行列車の終焉

平成22(2010)年3月13日ダイヤ改正にて上野と金沢を結ぶ寝台特急北陸および急行能登が廃止されます。この廃止により首都圏と北陸を結ぶ定期夜行列車はなくなります。

九州内夜行列車の終焉

平成23(2011)年3月12日ダイヤ改正にて博多と南宮崎・宮崎空港を結ぶ特急ドリームにちりんが廃止されます。この廃止により九州内を走行する定期夜行列車もなくなります。また、この列車の廃止により日本における定期座席夜行列車がなくなることを意味します。

プルマン式A寝台の消滅と583系電車の定期運用終了

平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正にて大阪と青森を結ぶ寝台特急日本海、大阪と新潟を結ぶ急行きたぐにが廃止されます。それに伴い、二段式のA寝台車両を連結した列車が消滅します。二段式のA寝台はプルマン式A寝台と呼ばれています。プルマンとはアメリカのプルマン社に由来するものです。プルマン社は19世紀の初頭に活躍した寝台車両保有会社です。プルマン社が主に所有していた寝台車両と同様の設備が現在残っているA寝台車両の設備にあたることからA寝台をプルマン式寝台と呼んでいました。寝台特急日本海ではオロネ24型車両が、急行きたぐにではサロネ581型車両が最後までプルマン式A寝台として運行されていました。客車であるオロネ24型は新製時からプルマン式A寝台で、電車であるサロネ581型は急行きたぐにへ583系導入時に改造によりプルマン式A寝台として誕生した形式になります。平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正により、最後まで運用を続けていたオロネ24型とサロネ581型の定期運用がなくなりプルマン式A寝台の定期運用が廃止となります。1900年に日本で最初に導入された寝台設備もプルマン式寝台でした。寝台設備として日本で最も歴史のあるプルマン式A寝台は消滅することになります。臨時列車でも連結が見込まれないと思われるので、プルマン式A寝台に用いられていたA寝台上段およびA寝台下段という区分は実質的に消滅となります。A寝台に関する設備は個室タイプのみ残されることとなります。また、プルマン式のB寝台である電車3段式B寝台も急行きたぐにの定期運用廃止により、定期列車からは消滅します。

平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正では急行きたぐにが廃止されることにより583系寝台電車を用いた定期列車の運用は終了となります。583系は昭和42(1967)年10月1日改正にて581系寝台電車を用いた「月光」として登場し、後継の583系を含めて、夜は寝台、昼は座席として使用されました。「月光」として使用を開始したことから月光型と呼ぶようだが、月光がなくなっていることから581系を含めて583系と呼ばれることの方が多く書籍などでも583系と表記されることが多い。主に新幹線と接続し山陽本線を経由し九州各地および東北本線で583系の設備を有効に活用されていた。しかし、B寝台では、客車列車が2段寝台の導入や改造が進められたのに対し、583系にはそれが及ばなかった。また、座席列車としてもリクライニングシートが特急列車の主力である中、寝台設備の関係上でボックスシートの設備のまま残されることとなった。リクライニングシートの機能が向上していくとボックスシートは見劣りがしていた。山陽新幹線の開業や博多延長開業、東北新幹線の開業により平行する在来線の特急が廃止され、夜は寝台、昼は座席として活躍できる環境も狭まっていった。そして、普通列車への転用改造など583系から形式が変わっていた車両が登場する。現在は転用改造された車両も含めて定期運用では急行きたぐにのみが583系寝台電車を使用した最後の定期列車となっていた。最後の定期運用となった急行きたぐにでは、夜行列車のみの設定であるが、座席と寝台の両方の設備を利用した他、グリーン車やA寝台など多様な座席種別を用意していた。今回の改正にて、583系寝台電車の定期運用は終了となる。

平成24(2012)年3月17日ダイヤ改正にて残された定期夜行列車は「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」「あけぼの」「北斗星」「はまなす」の5名称(5往復)となり、所定曜日に運転のある「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」を入れても7名称となります。


寝台車個室の歴史


寝台車・個室のおいたち

 日本における寝台車の歴史は1900年4月8日に始まります。当時の山陽鉄道に初めて寝台車が導入されました。また、官営鉄道(後の国鉄)では同じ年の10月に1等寝台車が新橋 - 神戸間の急行列車に連結されました。その後、鉄道網の延伸と共に全国各地へと寝台車が導入されていきます。その当時の寝台車は一般庶民が利用できるものではなく3等級制の一番上の1等から導入され一部の裕福な人達が利用する車両でした。現在のB寝台に相当する3等に寝台車が登場するのは1931年になります。1958年20系客車が登場し青に白のラインを3本入った編成はのちに「ブルートレイン」と呼ばれるようになる。太平洋戦争により一時寝台車の連結が取りやめられたことはあるものの全国各地の鉄路を走り回った寝台車も鉄道の高速化、新幹線・航空機・夜行バスに押される形で運転本数、運転区間が縮まっています。それまで1等寝台やA寝台など高嶺の個室が1984年7月に4人用個室「カルテット」がB寝台に初めて登場しました。B寝台4人分の料金で個室が利用できるようになりました。1985年3月にはくつろぎの空間「ロビーカー」が登場して旅の楽しみを与えてくれました。1987年3月にはB寝台2用個室「デュエット」やシャワー室を備えた車両が登場し、そして1988年3月に青函トンネルが開通し「北斗星」が登場し豪華A寝台個室「ロイヤル」をはじめとする各種個室が連結されて設備の多様化されていきまました。

寝台車個室

 少しずつ運転本数、運転区間が縮まっている寝台列車ですが、「北斗星」の登場と前後して格安な「個室」が各列車に連結されました。ここではトワイライトエクスプレスや北斗星といった豪華な個室はテレビや雑誌でも紹介されていますが、それ以外の列車はあまり紹介されていないのでこのページで紹介することにしました。
 私の利用した列車から紹介するので全ては紹介できませんが、個室の雰囲気を味わって下さい。また、昔のイメージがある方にはこんな列車があるんだと知って頂きたいと思います。いつか利用して見ようと思って頂ければ幸いです。

縮小される寝台列車

 97年11月29日のJR時刻改正により臼杵のページで紹介した「富士」が大分止まりとなり臼杵まで行かなくなってしまいました。また、東京と西鹿児島まで結んでいた「はやぶさ」号も熊本止まりとなりました。これらの列車は東京を夕方出発して翌日の昼過ぎに終点に到着していました。飛行機を使えば1〜2時間ほどで到着できる地点なのです。値段も寝台車を使った方が高いところも存在しています。
私が初めて寝台車を利用した頃には「紀伊」「みずほ」「金星」「明星」などの寝台列車もありましたが、現在は名前も消えてしまいました。同じ方面にも何本も走っていた時代もありましたが、現在は同じ方面へ何本か走る列車は「北斗星」「はまなす」、「サンライズ瀬戸・出雲」など数えるほどしか残っていません。

特急列車に抜かれる特急列車

 九州方面の各列車や日本海・トワイライトエクスプレス、北斗星など一部の寝台列車は特急列車に抜かれます。特急列車の方が加速性能が良く、新型の車両が導入されスピードアップしました。また、特急列車の本数も増えているため、スピードが数十年変わらない寝台列車はダイヤ設定に苦労しているようです。特急列車に抜かれるということはもし乗り遅れても後ろを走る特急列車に乗れば大丈夫ということでもあります。乗り換えれば、目的地まで早く到着できるという利点もあります。興味のある方は時刻表で調べてみましょう。
 新幹線が各方面に走っています。東京から九州への寝台列車は東京と名古屋の間などを新幹線利用にすると時間の有効利用が可能になってます。「北斗星」も同様に東京と仙台間などで新幹線利用にすると便利なようになってます。

高くて遅いが経済性も

 寝台列車は在来線を通りますので乗車時間が長くなる傾向にあります。そんなイメージから高くて遅いというイメージが先行しているように思います。例えば、さくら・はやぶさ号で東京 - 博多間はおよそ16時間かかります。新幹線だとおよそ5時間で到着致します。航空機だと羽田 - 福岡間1時間半で到着できる。品川、浜松町からはおよそ20分、搭乗手続きが15分、福岡 - 博多は5分を考えると2時間をちょっと超すことになります。この区間、B寝台なら23,040円、のぞみで23,560円、航空機で28,200円かかります(通常期普通運賃、2003年6月現在、前後の交通費は含めない)。通常期で比べると寝台のが安いのです。航空会社や割引運賃により航空機のが安くなることもありましょう。しかし、寝台列車には寝ながらに移動できるというメリットがあります。新幹線に乗った場合、飛行機に乗るときは前後の移動も含めてまるまる移動だけの時間になってしまいます。しかし、寝台車では寝ながらにして目的地まで到着でき、残りの時間も寝台車の余裕の持った空間を提供されることにより経済性があると私は思います。前夜移動の場合、宿を取らなければならないが寝台車なら寝ながらに移動できるので必要がなくなる分、経済的であると思います。

サンライズエクスプレス登場

 先行きがちょっと不安な寝台列車ですが、98年7月から出雲号・瀬戸号に新型車両サンライズエクスプレスが登場しました。この電車は、ほとんどが個室寝台で構成されています。また、リーズナブルな料金な指定席料金のみで利用できるノビノビ座席も連結されました。現在走っている寝台車の大半にも個室車両が連結されています。これらの個室車両は一部を除いて1両か2両しか連結されていません。